"日刊" について

日刊化は、このサイトをはじめるにあたり、私が定めた努力目標の1つである。とはいえ、世の中の新聞よりは休刊日が多く、ほぼ日刊ぐらいなことにはなると思うが、単なるイチ社会人、時間がままならぬことも多いため、ご了承いただきたく。

結城浩さんの 『Web日記を書く心がけ』 から、私が目指すところをを引用抜粋させていただくと、

  • 文章の体裁はあまり気にしないこと。 少しくらいねじれた文章があってもあまり気にしない。それよりは、勢いというか、生きている感じというか、そういうのがあった方がよいと思う。つまり、思いついた言葉をポンと出しちゃうのだ。で、違うなあと思ったら後から補正する、と。
  • 頻繁な更新を心がける。 もし頻繁に更新できないけれど、定期的に更新している人は、 WWWCやアンテナを読者に紹介して、更新したときに見てもらうような工夫があるとよい。
  • 無理しないで、楽しみつつ。 Web日記も、自分の気分転換やお楽しみとして書くのがよい。義務になっちゃったらつまらない。

とりあえず、毎日書いて、毎日直して、努力目標は目標として無理のない範囲で更新していければ...と思っている。



無論、日刊化にはものすごい短所がある。それは、私のように普段からあまり深く物事を突き詰めない人間が毎日書くとなると、それはもう、当然、内容のレベルは下がりまくりになってしまうことである。

寺田寅彦氏は、『ジャーナリズム雑感』のなかで、以下のように述べている。

ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出て来る。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする。その殺人現場における事件の推移はもちろん、その動機から犯行までの道行きをたとえ簡単にでも正確につきとめるためには、実は多数の警察官や司法官の長日月の精査を要し、しかもそれでもなかなか容易にはすみからすみまで明白にしにくいのが通例である。それを僅々(きんきん)数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末(てんまつ)を記述し関係人物の心理にまでも立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。

記者というプロでさえ、日々主義は無理な要求なのだから、私にとっては、なおさら無茶だ。



それでも、私が日刊化を志したのは、毎日書き続けた場合に、それ以上のメリットを得られると思ってのことである。

三浦しをんさんは、朝日新聞の読書日記のなかで、以下のように述べている。(via 『ウェブログの心理学』

日記や自伝を読むとわかる。毎日が波乱万丈なのではない。なんでもない毎日を送っていたはずなのに、積み重なるといつのまにか、波乱万丈な一生になっているものなのだ。

はえびについて何の知識もない私にできるのは、ごく当たり前の毎日を記録しておくこと、そして、少し先の未来まで歩を進めたときに、ごく当たり前だった毎日を振り返り、その未来と比較してみることで、今まで見えなかったものを見えるようにしていくことだと思っている。



プロフィールの続きは、また、いつか。
途中まで書いてみたけれど、私にはテーマが重すぎて、来週でも無理そうな予感...。